「言葉が足りないのは 本を読まないから。
美しい言葉に触れ 素敵な表現を 自分の中にストックする。
意思の疎通は 言葉ありき …」
美輪明宏 (1935年5月15日~ 今年80歳)
美輪の実家は、長崎市内の「丸山遊郭」と呼ばれた遊郭街で
『世界』 という名前のカフェを経営していた。
1941年12月、イギリスやアメリカとの戦争体制に入った中で
美輪の父親は 「敵性文化を商売にする事は時局にそぐわぬ」 と言われて
カフェを閉店せざるを得なくなり、金融業に転業。
10歳だった美輪は長崎への原爆投下時、長崎市本石灰町(爆心地から約4キロ)
の自宅におり無事だったが、その後 近くの防空壕で待機した後に
6日後の終戦の日に 爆心地近くにあった生母の実家へ
祖父母を1人で探しに行き 惨状を目の当たりにする。
原爆により、父の貸付先が相次いで 破産・他界したため
返金を受けられなくなった美輪一家は 貧乏生活を余儀なくされた。
その前に 美輪の父の後妻が他界しており、父の後々妻も 失踪する等の
不幸に見舞われ、美輪は幼い異母弟達と 辛い日々を送ることとなった。
終戦後、自身が鑑賞した映画に出演していた 加賀美一郎のボーイソプラノに衝撃を受け
程無くして、声楽とピアノのレッスンを受け始める。 オペラ歌手、コンサート歌手を夢見て
1951年の春に国立音楽高等学校進学の為、15歳で上京する ・・・