ペルー銀山で失敗し 浪人の身となった是清に 数々のポストが舞い込んできた ・・・
「これまで私が官途についたのは、衣食のためにしたのではない。
今日までは 何時でも官を辞して 差支えないだけの用意があったのである。
従って、上官が間違っていて 正しくないと思ったときは、敢然これと議論して
憚るところがなかった。
しかるにいまや、私は衣食のために苦慮せねばならぬ身分と
なっている。 到底、以前のように精神的に国家に 尽くすことができない。」
注釈: 是清は浪人中で生活するにも困っていた。
北海道庁に勤めないか、群長はどうか、県知事はどうかと色んな話が
持ち込まれてきたが、これらの話を 上の理由により 全部断ってしまう。
浪人の身となった是清に 今度は日銀総裁が
山陽電鉄の社長のポストはどうかと 言ってきたが ・・・
「ペルーの銀山で失敗し、ヤマ師とまで言われかねない経歴を持った人間を
社長にして下さるお気持ちは大変うれしい。 しかし、もし私が社長として失敗したら
天下の日銀総裁が その不明を恥じることにもなります。
私は鉄道の社長など 自信がありませんし、自信がないことは 良心が許しません。
私は自惚れを捨てたところから 出発したいと思っています。
どうか、丁稚小僧からやれる仕事を 探していただきたい … 」
注釈: 日本銀行の第3代総裁の川田が浪人中の高橋の高潔な人物を評価し
ちょうど空席だった山陽鉄道の社長のポストを差し出す。
当時の山陽鉄道の社長は 今のJR西日本よりもはるかに大きい会社の社長と
いってもいいであろう。 しかし この話も高橋は断ってしまう。
川田総裁は ますます是清が気に入り、「ではワシのところで 玄関番をやってみるか?」
と たたみかけると ようやく是清は 「喜んでやらせていただきます」 と答えた。
そこで 「日本銀行建築所主任」という端役ポストが 用意された。
しかし一つだけ問題があった ・・・ その建築事務所の所長は 辰野金吾といい
以前 是清が英語学校で 英語を教えていた時の教え子である。
川田は 「教え子の下では、ちと、まずいかな」 と問うた時の是清の返事が …
「そんなことはありません。 喜んで辰野さんの下で働きます!」
是清は どこまでも無欲、恬淡で 私欲のない男であった。
高橋是清(たかはし・これきよ)
1854年~1936年(安政元年~昭和11年) 江戸生まれ
1875年、東京英語学校教師となる。 1881年、農商務省工務局に入る。
1892年、日銀に入る。 1911年、日銀総裁となる。
1913年、大蔵大臣、1921年、第20代内閣総理大臣。
1936年、2・26事件。 赤坂の私邸で反乱軍の襲撃を受け、青年将校に射殺される。
83歳で没。
写真は左から、犬養毅・高橋是清・加藤高明・尾崎行雄
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