昭和39年 44歳で大蔵大臣に就任したさい、大蔵省幹部を前にしての挨拶
「私が田中角栄だ。 小学校高等科卒業である。
諸君は日本中の秀才代表であり 財政金融の専門家ぞろいだ。
私は素人だが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきて
いささか仕事のコツを知っている ・・・
一緒に仕事をするには 互いによく知り合うことが大切だ。
われと思わん者は誰でも遠慮なく大臣室にきてほしい。 何でも言ってくれ。
上司の許可を得る必要はない ・・・
できることはやる。 できないことはやらない。
しかし、すべての責任は この田中角栄が背負う。 以上!」
1945年11月に戦争中より 田中土建工業の顧問だった進歩党代議士の
大麻唯男からの要請で 献金をおこなったことをきっかけに、大麻の依頼により
1946年4月の第22回衆議院総選挙に進歩党公認で、郷里の新潟2区から立候補する。
田中は1月から地元に乗り込んで選挙運動をおこなったが
有力者に与えた選挙資金を流用されたり、見込んでいた支援者が立候補する
といった誤算もあり、候補37人中11位(定数は8)で落選した。
この選挙の時に、「三国峠を崩せば 新潟に雪は降らなくなり
崩した土砂で日本海を埋めて 佐渡まで陸続きにすればよい …」 という演説をした。