市川清(リコー創業者)

諦めない人が 道を開く

 

 

上海から引き上げて来たが、無一文からの出発であった。 おいそれと職はない ・・・

仕方がないから 富国生命の外交員をやる肚を固める。

「乞食と保険屋は 入るべからず!」 という貼り紙の 流行していた熊本で

経験もコネもない男が、保険の外交員になった!

給料は一銭もなく、出来高払いの歩合性であった。

市内の学校の先生、医者、弁護士 ・・・

インテリ層ばかり狙って 歩きまくるが みな断られた。

 

12月の師走も押し迫った23日、家には一銭もなく ついに 「おい 夜逃げをしよう … 」

と妻にうなだれた。

すると 妻は けなげに 「どうせ夜逃げをする気なら、恥も外聞もないでしょう? 

大晦日まで がんばったらどうかしら」 と夫を激励した。

妻の言葉に奮起して 逆に度胸が据わり、7度訪ねて断られた 高等女学校の

校長先生のことが 頭に浮かび、「もう一度断られに行くか!」 と玄関のベルを押すと

「あら  外交員さん、旦那様がお待ちですよ」 と愛相よく女中さんが言い

直ぐに校長は会ってくれた。  「あなたの根気に驚いた」 となんと 契約をしてくれた。

そればかりか 知人の五校教授にも 紹介状を書いてくれたのだ。

これを機に 夜逃げどころか 大晦日まで面白いように契約が決まっていった。

 

最初のお客さんになってくれた この校長は

「僕は保険は嫌いだけど、でも あなたから頂いた7枚のハガキを見て

この人は何か理由があって 保険の外交員をやっていると思った」

と言って 契約してくれたのだった。  

この男は断られても 皆にハガキを送り続けていたのである。 

 

この男が 後にリコーの創業者となる市村清(1900~1968年)である。

翌年は全国一の表彰を受け、その後 理研感光紙(リコー)を扱い

三愛商事、三愛石油、日本リースを設立していった。

 

 

 

 

諦めるか やり通すか で大きく運命が、変わりました ・・・

悪い原因を作った人を 恨むだけでは、とても ダメですね。

 

tokioka の紹介

1958年1月27日生まれ、1985年 家業の旅館を法人化と同時に 代表取締役に就任。 1995年 旅館近くに434坪の土地取得し、駐車場事業開業(ビーチリゾート系) 1998年 同じく250坪を取得し 二つ目の駐車場事業開業。 2001年 旅客運送業開業。 2003年 旅行業開業。  2006年 旅行業から撤退。 2009年 駐車場事業から撤退。  現在 旅館業を核事業としながら、関連性のある 別の事業を模索中である。

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