「下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。
そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ …」
小林一三 (阪急グループ創業者 1873.1.3.~1957.1.25. 84歳没)

親友で同じ慶應出身者であり、「電力の鬼」と呼ばれた松永安左エ門によると
小林の性格は「腹が決まってからのことには、何事も動じない」というものだった。
また、自分に直接関知しないことには 無関心であったとも言われている。

1930年代、福澤諭吉が作った時事新報が経営危機に陥った際
慶應卒業生の有力者が挙って時事新報を救うために出資や負債の引き受け
などを行った。 松永もその一人であり、松永は小林に時事新報救済のための協力を
要請したところ、小林は「慶應と縁があっても私と縁のない時事新報に
わざわざ金を出すのか?」と拒絶。 松永こそ苦笑で済ませたものの、
他の慶應OBから批判が殺到した。
小林は時事新報の先行きがどう転んでも
好転しないことを見通して いたと言われ、先行きのない企業に投資は出来ない
と言うことで拒絶したのであったが、そうと理解する慶應OBは少なかった。
事実、時事新報は1936年(昭和11年)に東京日日新聞と合同した。
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雪に耐えて 梅花麗し
「苦しまずして 栄光なし …」
黒田博樹 1975年2月10日~ 40歳

2008年、ロサンゼルス・ドジャースと3年3530万ドルで契約を結んだ。
これにより、カープ初の日本人メジャーリーガー誕生となった。
ドジャースから当初提示された条件は4年契約だったが、
「ワクワクする気持ちは ほとんど湧いてこなかった。 戦地に行くつもりでアメリカに行く。
4年間も そんな苦しいことはできない。 『苦しい時間』 が短い方が 自分は頑張れる。
3年間で きちんとした成績を残せれば、4年目に同等か それ以上の契約を
交わせるはずだ …」
として 契約年数短縮を 自ら申し出た。

日本とはやり方の違う アメリカのトレーニングについて
「アメリカに来たので アメリカの野球を受け入れないと、
自分のことも 受け入れてもらえないと思った。
こっちに来た以上は こっちのやり方も自分でトライしてみないと …
そういう姿勢というのは、みんなに伝わると思う。 アメリカの野球をしに来たので、
調整法であれ、トレーニングであれ、一度受け入れることは大事」
と 語っている。

タイトルは、黒田氏の座右の銘 … 漢詩の一節だそうです。
麗し:うるわし
筆談ホステス
「過去と他人は、変えられませんよ。 でも、未来と自分は変えられます!」
斉藤里恵 (1984.2.3.~ 31歳)

髄膜炎の後遺症で、1歳10カ月で 聴力を完全に失う。
その後は 「青森一の不良娘」と呼ばれるほどの問題児となるが、
万引した洋品店で誘われて働いたことをきっかけに、接客業の楽しさを知り
19歳で 水商売に進む。
2007年(平成19年)に単身上京し、銀座の高級クラブで ホステスとして働き
筆談を駆使した独自の接客で大人気になり、ナンバーワンの地位に上り詰めた。
銀座で最初の店は八丁目の 「Le Jardin」
愛用するメモパットはRHODIAブロック(5mm方眼)。

2009年(平成21年)11月18日には、青森市の観光大使になった。
夢は 「障害を持っている人が 働きやすい店を作ること」。
ハワイアンエステに興味を持ち、美容院を併設したエステサロンなどを検討している。
2010年(平成22年)1月、毎日放送制作・TBS系で
処女作「筆談ホステス」がドラマ化された … 主演は北川景子。
2010年(平成22年)1月28日、妊娠していることを明らかにした。
お腹の子の父親となる男性とは別れ、独身のまま、シングルマザーになる決意を表明する。
6月24日 第1子となる女児をハワイで出産。
妊娠・出産を通じて得た体験を記した著書3作目、「母になる」を出版する。
超強烈で 劇的な人生ですネ …
没後20年
昭和39年 44歳で大蔵大臣に就任したさい、大蔵省幹部を前にしての挨拶

「私が田中角栄だ。 小学校高等科卒業である。
諸君は日本中の秀才代表であり 財政金融の専門家ぞろいだ。
私は素人だが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきて
いささか仕事のコツを知っている ・・・
一緒に仕事をするには 互いによく知り合うことが大切だ。
われと思わん者は誰でも遠慮なく大臣室にきてほしい。 何でも言ってくれ。
上司の許可を得る必要はない ・・・
できることはやる。 できないことはやらない。
しかし、すべての責任は この田中角栄が背負う。 以上!」

1945年11月に戦争中より 田中土建工業の顧問だった進歩党代議士の
大麻唯男からの要請で 献金をおこなったことをきっかけに、大麻の依頼により
1946年4月の第22回衆議院総選挙に進歩党公認で、郷里の新潟2区から立候補する。
田中は1月から地元に乗り込んで選挙運動をおこなったが
有力者に与えた選挙資金を流用されたり、見込んでいた支援者が立候補する
といった誤算もあり、候補37人中11位(定数は8)で落選した。
この選挙の時に、「三国峠を崩せば 新潟に雪は降らなくなり
崩した土砂で日本海を埋めて 佐渡まで陸続きにすればよい …」 という演説をした。
塚本 幸一
塚本幸一(ワコール創業者) 1920年9月17日 ~ 1998年6月10日

「復員したその日から 私はアクセサリーの行商に出た。
昨日まで帝国軍人であった私が、今日から女性のアクセサリーを売る。
奇異に思う人もいるかもしれないが、それは私の体の中に 近江商人である
父の血が流れていたからに 他ならない。
25歳の私には家族を養わなければならない義務感もあったが
なによりも 代々商人であった塚本家の血が 私の中にも波打っていた。」

「どのような危機の時も 私はたじろがなかった。
むろん 解決に自信があったわけではない。
どんなときも 全身全力でぶつかってきた。
私は信じていたのである … あの戦地の地獄の白骨街道を 生き延びてきた
自分には、52人の戦友の魂がついている。
ここで倒れるわけにはいかない。 また彼らが 助けてくれぬはずがない と。」

「私にとって人生とは、自分自身を知るための日々なのだ。
戦場で生き残り、天命によって生かされ 事業という第二の戦場で
現在も戦い続けている私とは いったい何者なのか。
自分の内面を見つめて、常に己を知ろうとしている。
己は時には、対面する相手の言葉や表情にも表れる。
自分が行っている仕事に対する 周囲の反応から 己が出てくる場合もある。」
氏は インパール作戦に従軍するも 生還。
インパール作戦とは、1944年3月に 日本陸軍により開始され
7月初旬まで継続された、援蒋ルートの遮断を 戦略目的として
インド北東部の都市インパール攻略を 目指した作戦のことである。
補給線を軽視した ずさんな作戦により、多くの犠牲を出した
歴史的敗北を喫した作戦である。
無謀な作戦の代名詞として 現代でも しばしば引用されているようです …
教育
適性を気にするのは 時間の損失!
森本早苗 … 83歳の現役美容販売員

1931年 愛媛県生まれ。 1959年に東京・日本橋人形町のポーラの営業所に登録し
営業活動をスタート。 1967年にポーラ史上初のミリオン(月100万売上)第1号となり
日本全国10支店以上で 講演を行う。 73年に累計売上1億円達成第1号に。
担当した営業所は20カ所。 95年に支店長を希望退職し、ポーラの「自由人」となる。
座右の銘は「行動」 … 一男一女の母

元々は美容業界に 全然興味がなく、ポーラに入ろうなんて 全く思っていなかったのです。
たまたま 水天宮さんにお参りした帰りがけに ポーラの求人募集のチラシを見て
何となく そのままオフィスに行ってみました。 小さなオフィスをのぞくと 人が大勢いまして
そこに各社員の売上グラフがありました。 数字で競争するだなんて 面白そうだし
給与は出来高歩合と聞き、いいなあと思いました。
それ以来、とにかく仕事に没頭してきました。 私にとって 仕事とプライベートの時間は
分かれていません。 ですから、お客さまを回っている合間に 銀座のブティックで洋服の
取り置きを頼んだり、面白そうな美術展に 立ち寄ったりすることもあれば
銀座の宝くじ売り場の販売員の女性に 「売り場の窓からは お顔しか見えませんから
そのお顔を もっと綺麗にしましょうよ」 と声を掛け、購入につなげたこともあります。
入社3年後に結婚して、その後2人の子どもを産みましたが
その時も病院で周りの人に セールストークをしていました。
その気になれば、いつでもどこでも仕事はできるわけです。
適性を気にする人が多いですが、悩むほど 時間を損失するとしか思えません。
「向いているかどうか」 を気にするよりも、「今の仕事に合わせていく」
という考え方に 切り替えた方が賢明です。 いったん その世界に飛び込んだら
まずは その世界のやり方で 頑張ってみるべきなのです。

恐るべし83歳! 美輪明宏と三つ違い … 話 めっちゃ合いそう …
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美輪明宏
「言葉が足りないのは 本を読まないから。
美しい言葉に触れ 素敵な表現を 自分の中にストックする。
意思の疎通は 言葉ありき …」
美輪明宏 (1935年5月15日~ 今年80歳)

美輪の実家は、長崎市内の「丸山遊郭」と呼ばれた遊郭街で
『世界』 という名前のカフェを経営していた。
1941年12月、イギリスやアメリカとの戦争体制に入った中で
美輪の父親は 「敵性文化を商売にする事は時局にそぐわぬ」 と言われて
カフェを閉店せざるを得なくなり、金融業に転業。
10歳だった美輪は長崎への原爆投下時、長崎市本石灰町(爆心地から約4キロ)
の自宅におり無事だったが、その後 近くの防空壕で待機した後に
6日後の終戦の日に 爆心地近くにあった生母の実家へ
祖父母を1人で探しに行き 惨状を目の当たりにする。
原爆により、父の貸付先が相次いで 破産・他界したため
返金を受けられなくなった美輪一家は 貧乏生活を余儀なくされた。
その前に 美輪の父の後妻が他界しており、父の後々妻も 失踪する等の
不幸に見舞われ、美輪は幼い異母弟達と 辛い日々を送ることとなった。
終戦後、自身が鑑賞した映画に出演していた 加賀美一郎のボーイソプラノに衝撃を受け
程無くして、声楽とピアノのレッスンを受け始める。 オペラ歌手、コンサート歌手を夢見て
1951年の春に国立音楽高等学校進学の為、15歳で上京する ・・・
赤塚不二夫

「ひとりで考え、ひとりで素晴らしい作品を生み出す人なんて そんなにいやしないよ。
天才には 必ずその天分を引き出す人間がいて、
そいつのほうが、もっとずっと天才だったりするんだ …」
赤塚不二夫(1935.9.14.~2008.8.2. 72歳没)

1935年(昭和10年)満州国熱河省に、6人兄弟の長男として生まれる。
父親は、憲兵やスパイとして僻地で宣撫工作を行う 特務機関員をしていた。
父は非常に厳格で なおかつ権威的であり、漫画を読むことを
禁じられるなどし、幼い頃の赤塚は 父親が大の苦手だったという。
ただ、普段から現地に住む中国人とも平等に接し、子供たちにも中国人を
蔑視しないよう教えるなど 正義感の強い人物でもあった。
そのため、敗戦直後に報復として赤塚家の隣に住む一家が 中国人に惨殺される中
普段から中国人と親密にしていた赤塚の家族は 難を逃れた。

若かりし頃 なかなか カッコよかったんですね …
ゲーテ
「 苦しみが残して行ったものを 味わえ! 苦難も過ぎてしまえば、甘い … 」
「 思慮深い人は、決して敵を侮らない 」
「人間の最大の罪は、不機嫌である … 」

1749年、ドイツ中部の裕福な家庭に生まれる。
父は教育に熱心で、3歳のときから読み書きや算数などの初等教育を受ける。
ゲーテは特に語学に長け、少年時代に6ヶ国語を習得。
読書も好み、詩作も評判となる。16歳で故郷を離れ、大学に入学するも
病気のため退学。
その後、フランス領にある大学に入学し、作家、詩人としての下地をつくる。
22歳で大学を卒業し、故郷で弁護士事務所を開設するが
仕事への興味を失い文学活動に専念。
息子を心配した父が 法学を再修得させるために
ゲーテを最高裁判所のあった ヴェッツラーへと送る。
ゲーテは、ヴェッツラーで熱烈な恋に落ちるも 彼女は友人と婚約中であることを知る。
ゲーテは彼女を奪い去ることもできず、誰にも知らせずにヴェッツラーを去った。
その後、ヴェッツラーの別の友人が 人妻との失恋が原因で
ピストル自殺をしたという報が届く ・・・ この友人の死と ゲーテの恋の体験が、
代表作 『若きウェルテルの悩み』 の構想へとつながる …




