海賊とよばれた男 3.

空襲で完全に焦土化した東京のど真ん中、銀座近くにあった 出光興産の5階建て社屋は

1階が焼けただけで 奇跡的に残った。  終戦から ちょうど1ヶ月目

その2階に 店主出光佐三と、東京在住の重役たちが集まった。

今後の会社のことを 話し合うためである。

 

明治44年(1911年)に 出光佐三(いでみつさぞう)が 創業した出光石油は

戦時中は、朝鮮、満州から華北、華中、華南、南方地方地域まで

手広く営業活動を行っていたが、敗戦で その拠点の全てを失った。

投じた資金も 無に帰した。  残ったのは 250万円ほどの借金だけである。

 

一方、内地にあった営業施設は、政府の統制機関に 接収されたままで

出光の自由には ならなかった。  つまり、この時の出光は、仕事の口を 全て奪われた

いわば 開店休業の状態であったのである。

敗戦とともに海外基盤が全て吹き飛び そこから800人もの社員が 引き揚げてくる。

殆ど仕事のない状態では、その人たちに給与を払っていくことは 出来るわけがない。

「大量解雇はやもえない」 という意見が幹部の中で飛び交ったのは 当然であった。
しかし 黙って重役たちの話を聞いていた出光佐三は 目を開き言葉を発する。
「私は、君らの意見に賛成できない。  馘首(かくしゅ)しては ならないと思う。

特に海外から引き揚げてくる者を 整理しようとする考えには、反対だ。」

視線が、佐三に集まり 釘付けになった。

 

「彼らが どんな気持ちで、危険な外地へ出て行ったのかを、今一度 思い起してほしい。

会社を信用すればこそだろう。  万が一の時には、会社が骨を拾ってくれるという

気持ちがあったから、危険を顧みなかったのだ。  文句を言わず、よく行ってくれたと

私は今でも、彼らに感謝している。  そういう人達を 首になど、私にはできん」

しかし 「首を切らなければ、共倒れですよ」 と なお粘る幹部もいたが、

佐三は一歩も引かない。

 

「社員は みんな家族のようなものだ。  きみらは、食い物が足らんからと、家族の誰かを

追い出したり、飯をやらないように しようと言うのか。  そんな薄情なことができるのか。

事業は飛び 借金は残ったが、会社を支えるのは人だ。  これが唯一の資本であり

今後の事業を作る。  仕事がないなら 探せばいい。  仕事を つくればいい。

それをせずに、安易に仲間の数を減らして、残った者だけで 生き延びようとするのは

卑怯者の選ぶ道だ。  

もし その努力をみんなで精一杯やって、それでも食っていけなくなったら

その時は、みんな一緒に 乞食にならおうじゃないか」

 

佐三の思いはただ一つ。  内地と併せて1000人になる社員と その家族を

荒波の中に放り出すことが 出来ないということであった。  どんなことをしてでも

石にかじりついてでも、みんなを 食べさせていかねばならぬ!

この一念に 凝り固まっていたのであった。

 

 

 

今日 8月8日は、長女タミ子の誕生日(20歳)

出来れば . . . こんな男を つかまえろ! (そうそう 居ないけどね)

 

 

海賊とよばれた男