鮎川義介

氏が 日本青年会議所で 講師として招かれ講演をした時に

ある名門企業の社長からの 質問と それに対する答え ・・・

 

「我々は 先代からの余慶で、きわめて恵まれた環境にありますが

今後 この環境を土台にして、さらに飛躍発展するためには、どうしたらいいでしょうか?」

 

氏は 即座に答えた。

「君たちが、今の立場を恵まれた環境だなと思い込んでいたら、それはとんでもない錯覚だ。

ありていにいえば、恵まれた環境ではなくて 甘やかされた環境なのだ。

そういうところからは 経営の厳しさは生まれてこない。

第一  親爺が遺した仕事にしがみついて、二代も三代も

その仕事から 利益を絞りとろうという考え方自体 間違っている。」

 

 

By 鮎川義介(あゆかわよしすけ)  1880年~1967年

 

 

東京帝国大学工学科卒を隠しての 職工として 入社(芝浦製作所)し
職工をやりながら 休日になると弁当を持って、東京周辺の工場を見学して歩いた。

当時の技術水準、企業経営、工場管理のことを 徹底的に研究して廻った。

約2年間で 得られた結論は 「日本の機械技術は 欧米からの輸入で

殆ど 独自のものはない。

だから日本で勉強しても、最新の機械技術に接することはできない。」 ということであった。

 

そして彼は アメリカに渡る。  

鋳物(いもの)工場の見習工になるため、バッフォロー市郊外の 可鍛鋳鉄製造会社に

週給5ドルの見習工になる。

そこで 現地の大男に混じって鋳物の湯運びをするのである。 大変な重労働である。

火傷をすることも 一度や二度ではなかったであろう ・・・

この男は 「日本人として 根を上げたらみっともない。」 と思い 頑張ったという。

そこで約2年間 職工生活をして 当時の最新鋳物技術であった 可鍛鋳鉄を習得して

帰国する。

 

そして 1910年(明治43年)

北九州の戸畑(とばた)に 日本初の可鍛鋳鉄会社 戸畑鋳物を設立する。  

この会社が 現在の日立金属の前身となる会社である。  

戸畑鋳物を皮切りに 次々と会社を設立し 日産コンツェルンと呼ばれる大財閥を築き上げる。

今日の日立、日産グループの土台を 一代で創り上げた! 

 

 

日産の電気自動車総合サイト